父と私と母とバルコニー [日々思うこと]

バラたちが帰ってきてはしゃいでいたのもつかの間。

 

翌28日の早朝、父が息を引き取りました。
ガンを告知されてから8年も闘病した末のことなので、これで父もやっと苦しみから開放されたのだと納得できています。いろいろな境遇の方がおられる中で、1年半の介護生活を経て徐々に覚悟ができて、悔いなく別れができた自分は幸せです。ただ別れがもう少し後だったらと、それだけを悲しんでいます。
病院に呼ばれてからずっと頭痛が続いて正直気落ちしていましたが、葬儀も終わり、昨日は初七日も済ませてようやく落ち着きました。母も気丈にしていますが、毎朝目覚めてから一日の(介護の)予定を確認する癖が抜けないと苦笑していました。

私は以前「通勤2時間」のことを書きましたが、その前は職場にほど近いところで暮らしていました。父の病状が深刻であると判明してから通勤時間を犠牲にし実家の近くに引越しました。それが今ここで騒いでいる、猫のひたいほどのバルコニーがある部屋です。

この部屋に越してからもしばらくは、狭いバルコニーはただ洗濯物と布団を干すだけの、殺風景な場所でした。
私は実は以前、土をいじるなんて大嫌い!な人間だったのです。もちろん花を育てるなんてもってのほか、もっぱら切花を買ってきては飾るのみでした。

花のない生活など考えられない、という母は私の部屋に遊びに来ては、何かしら鉢を置いていきました。マリゴールドやコスモスなどは、花が終われば丸ごと捨てていましたが、カランコエやカロライナ・ジャスミンはそうはいかないので、水だけやって放置していました。それがなかなか枯れずに変な形に伸びたりして、正直に言うと持て余していました。
母は立派に育てろとは一言も言いませんでした。気楽にやって枯れたらそれでいいと。ただ母は、花の素晴らしさを私に教えようとはしていたような気がします。

それが、鉢バラのロザリーの2番花を見てから変わりました。
ロザリーをもらったときは「めんどくさい!バラなんて難しいらしいし、1年草じゃないから簡単に枯れないだろうし…」と思っていました。
最初からついてる花にはあまり興味が生まれず、1番花が終わったあと、ネットで調べて紙ハサミで花がらを摘み、他の鉢と同様に水をあげるだけで放置のサイクルに入りました。
ところが、そこから新たな2番花のつぼみがあがり、まるで1番花が復活したようにたくさん咲いたのです。
カランコエやカロライナは1年のうちある期間しか咲かない、つまり一季咲きですが、このバラは幸いに四季咲きでした。それが私を変えました。もし母が持ってきたのが一季咲きのバラだったら、私はここで騒いではいなかったかもしれません。

そして私は花のない生活など考えられなくなりました。
布団も洗濯物もバルコニーには出られなくなるほど小さな鉢で占拠され、花が絶えないとまではいきませんが、何かしらが咲いている家になりました。

そして、私は毎週末、そのうち3日おき、やがて毎日、実家に通っていました。
父ははじめは普通にふるまえていましたが、2年前からほとんど座っているか横になるかの生活になりました。この間8回入退院を繰り返し、私の訪問は1年のうち半分以上が病院への見舞いになりました。
私は父にいつも花を持っていきました。父は自分で花を育てたりすることはありませんでしたが、私の花を見るととても喜びました。
私の花を見るといつも鼻に近づけ匂いを嗅ぎました。香りのない花も必ず確かめるようでした。
私のバラの中ではラブリーモアやボレロがお気に入りでした。だから我が家で咲いたこのバラはひとつも残らずみな父のところへ持っていった気がします。

父が亡くなった当日、バルコニーではバラが咲き始めました。翌日もまた次の日も開花は連続し、まさにシーズン到来。天気も良く蒸散も活発で、水を要求される頻度が多くなってきました。お世話は待ってはくれません。しかし、風に葉がそよぐのも眩しく、たくましくしたたかに生きる姿にどれだけ慰められたか分かりません。
今日も父の祭壇に我が家の花を活けてきました。きっと鼻を寄せて胸いっぱいに香りを楽しんだことでしょう。
母は今では私の花好きに圧倒され呆れていますが、喜んでくれています。今後は母のために花を運ぶ日々になります。

毎年、花がたくさん咲くこの季節に父の命日があることを、嬉しく思います。



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